風がひと吹き_北から南へと過ぎてゆく_
(急いたのか・・・)
長門守には、そう呟いたように聞こえたが、その声は軍馬の嘶きに掻き消えた。
暗中模索、運否天賦の進軍ではなかった。斥候を幾重にも配し、また経路を定めおき準備させ、万全を期した。ただ、それが尋常ならざるほど速やかであるために、常人には無策無謀としか映らない。しかし、それが最終的な成果に結実してゆくには、やはりもぅ少し刻が必要であった。
それからの三十町あまりに及ぶ退き陣は苛烈を極めたが、手筈通りに諸隊が渡河し終えると、尾濃を隔てるこの大河には最後の一艘が舟遊の如く浮かんでいた。まさしく"ゆるゆる"と。
信長は、それの真中に端然と立ち、北を向いている。そこへ追撃の武者が数騎現れ、その川端まで馬を寄せてきた。しかし彼は、口惜しく罵倒してくる武者らの方など見向きもせずに南蛮筒を手に取ると、やはり北に向かって高々と掲げ、引き金を引く_
轟然たる砲声が風を突き裂いて遠望の山々をつたい返し、そして黒煙がひと巻き舞った
その轟音に寄せ手の馬が驚き、ひとりの武者が落馬し川に投げ出されてしまった。他の者がその武者を川から引き上げている間に、舟は渡河し終えていた_
乱れし世に在ってさえ梟雄と謳われ、蝮とまで字された濃州の主が、この時、内訌の末に倒れた。
父・長井新左衛門尉と、その子であり"道三"と号した男による戦国策は、その家紋となった"二頭波"の如く、抗れば抗うほどに濃州の峰々を覆い尽くし、そして故に消えていったのだった。そして新たな風濤は木曽川を越え、春嵐の如く尾州の地を吹き荒らしてゆく_
その尾張北部、丹羽郡小折の郷に常観寺という禅寺が今も在る。創立は不詳であるが、本尊は釈迦牟尼仏。嘉祥年間(A.D.848〜851)の頃に、"小野 篁"が地蔵菩薩銅像を鋳造して此処に安置し、桜雲山常観寺と名付けたのが起こりといわれている。そ此の"御釜地蔵"は尾張六地蔵の一つとして、現在は県の文化財に指定されている。しかしこの頃、つまり弘治年間(A.D.1555〜1557)ころまでは荒れ果てていたのだが、時の住職が寺の修復や造営など、その中興を図ったと伝
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