1. 弔い事

えられている。また小折郷には当時、生駒家が馬借業として尾濃の物資流通を支えて興隆しており、その寄進も絶えなかったという。

二日後 常観寺

「大屋敷に出向いて、また油を運んで下さるようにと」
「はい」
 朝の厠戸の前で短い言葉が交じり終えると、修復されたばかりの庫裏より行者が音もなく出でた。そして首と腰を屈めて山門を潜り、二町ほど先にある生駒舘に入る。入ったのか?入らなかったのか?見切れぬ程で出でて、もと来たままに戻ってゆく。

「済みましたので」
閉じたままの厠戸の向こうに伝え終える。
_まこと一息であった。

 この行者_いや、童行の名を甚介と云う。歳は十一になるが、剃髪せずに寺の諸事、雑務をこなす半僧半俗の身である。

寺に入ったのは彼が五歳の時。父は尾州の虎、織田弾正信秀の馬廻衆という栄誉或る身分であったようだが、十年も前の戦で討ち死を遂げている。それは、織田と斎藤が美濃の加納口で相まみえ、織田方だけで五千人とも云われる戦死者を出したおお戦であった。その後、母は三年の間は必死で甚介を女手一つで育て上げ、稚児を寺に預けた後に_夫の後を追っている。

 昼前に屋敷からの使いの者が寺にやってくると、程なく甚介を連れ添い屋敷に戻って行った。


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